シンギュラリティこわい

世に対する疑問、音楽の解釈、ふと思ったこと、積年の思考、すべて表現の自由の担保

PARTY is all about Mrs. GREEN APPLE

どうも。学生の皆さん春休みをいかがお過ごしだろうか。社会人の人、働け。最近周りに花粉症の人が多過ぎてその辛さを目の当たりにしてるので、いつか来るやもしれぬ自分が花粉症に苦しめられる日に怯えながら春休み終盤を過ごしてます。僕です。

さて、前回はMrs. GREEN APPLEの最新曲「ロマンチシズム」についてできる限り深く掘り下げていきました。

今回はタイトルにある通り、2018年4月にリリースされたMrs. GREEN APPLEの3rd AL『ENSEMBLE』に収録されている、このアルバムのリード曲である「PARTY」について深く掘り下げていこうと思っております。今回もミセスになっちゃった。ごめん。好きなので仕方ない。

 

PARTY

PARTY

 

同アルバムは発売されてから1年くらいが経つわけですが、改めてじゃあこの曲の正体(正体?)は一体どうなっているのかというのを見てみよう、てことでこの曲を取り上げることにしました。

さきに言っておくと今回も多分長くなってしまいます。前回だけだと思ったけどごめんね。それほどこの曲が持つコンテンツが豊富だということです。なんてったってこの曲はこんなに一曲に使っていいのかというくらいキラーフレーズだらけであり、音楽的にもてんこ盛りなのです。これは長くなってもしょうがないね。ごめんね。

前置きはこのくらいにしてさっさと本題にいきたいと思います。今回も当然あくまで僕視点の考えです。悪しからず。レッツゴー。

 

 

タイトル「PARTY」

 

まずは前回同様タイトルについて。僕はタイトルが明らかになった時、ミセスの音楽性の広さから、今回は名前通り今までミセスが通って来なかったパーティサウンドが来るのかなと割と安直に考えて待っていた。

ところがどっこいミセスから放たれたこの曲は、最近で言えばKing Gnuや洋楽のエレクトロポップなどに代表されるようなパーティサウンドではなく、まさに「組曲」とも言えるような情報量が異常(褒めている)な曲だったのだ。まあサウンド面の話は別にパートを設けるのでそこで。

タイトルである「PARTY」はサウンドの雰囲気からつけられたものではなく、歌詞との結びつきの強いものだった。この「PARTY」という言葉は歌詞にも度々登場するので、ここではこのくらいの話題にとどめたい。続いて歌詞を掘り下げていく。

 

歌詞から紐解くPARTY

 

てなわけで歌詞に焦点を当ててこの曲を見ていこう。

まず全体を通して、この曲を聴いた人なら分かると思うが、元貴さんの「人生観」が過去一出ている曲であるように思える。そもそも彼は哲学というものが好きで、哲学の大きなテーマとして「人生とは」「人生の意味」なんかがある。そこから影響を受けていることは間違いないので、何かしらの哲学のテーマとの繋がりも考えてみるのもよいかもしれない。それを踏まえて詳細に見ていこう。

 

もう一度
しがみついて
しがみついて
食らいついて
泣きじゃくって
汗を知る人になれ

いつか生まれる“僕”が
呆れ果てないように
馬鹿げてないバカになれ!

 

タイトルから予想していた歌い出しとはかけ離れた歌い出しだった。なるほどそっちに行くのか、という気持ちとあぁやっぱりそれでこそMrs. GREEN APPLEだという気持ち両方が生まれた人も多いのではなかろうか。

"馬鹿げてないバカになれ!"

いきなり歌い出しサビからのこのキラーフレーズである。

『人生は(楽しいことも勿論あるけど)多くは失敗と挫折の繰り返しだと思う。どれだけ挫折しても、そこからもう一度しがみついて食らいついて這い上がる。泣いてもいい、泣いた方がいい。苦しみを知っているあなたは知らない人より間違いなく強いんだよ。いつか訪れる未来を生きる自分から見損なわれないように、「向こう見ず、思慮の足りない馬鹿」じゃなくて、「向かうものに対してバカみたいに一心不乱になれる」人になってね。』

と僕は捉えた。「馬鹿げてないバカ」というのはこういうつもりで歌詞にしたのではなかろうか。それにしても凄いフレーズである。「いつか生まれる僕」というのも面白い表現だ。この「僕」は元貴さんではなく聴き手であるのが面白い。元貴さん自身への暗示でもあるかもしれないが(どっちなん)。あくまで推測なので。

 

言葉じゃないと伝わらない愛も
言葉にするとちょっとパッとしないよ
外に出ると人は案外 人だよ
好きになり嫌いになったりするの

 

『「好きだ」とかいう愛の感情は言葉にして相手に伝えてあげなきゃだけど、その時の言葉は決まりきっててチープに聞こえてしまう。』確かになぁ〜。難しいね。

「外に出ると〜」は僕は皮肉だという風に捉えている。

『社会やら友達の人間関係やら外交的な場面では人間はしばしば外面(そとづら)が良くなる。周りの顔色に合わせてニコニコしたり強い態度をとったり、都合を変えるよね。』

といったような意味に感じられた。No.7のような最近の人間へのシニカルさだ。

 

あぁ素晴らしい
賑わしい
僕が死ぬまでのパーティだ!
君でさえ嘘をつく
ちょっぴりの醜さで乾杯さ

 

「僕が死ぬまでのパーティだ!」

またもキラーフレーズ登場である。リード曲のサビで「死ぬ」というワードを使っちゃうのだ。「死」というワードは確かに聴き手を強烈に引きつける言葉ではある。

んで、なるほどこの曲の中では、パーティは人生の比喩表現なんだなという考えに至るのは容易だと思う。同時に、人生を考える上でまず何より先に「死」をゴールとして考えてるんだなぁこの人は、とも思った。いつか死ぬってのは当たり前だけど、自らの死とずっと向き合い続けることはそう簡単ではないように思う。

『無垢で綺麗な心を持っている(と思っていた)君でさえ嘘をついてしまう。でもそれが本来の人間らしい。そこも含めて僕は好きだ。』

ここでの「君」は、先ほどの皮肉の対象となった人間とは対照的な人のことだろう。元貴さんのこの考え方は昔から一貫している。好きである。

 

あぁ穢らわしい
汚らしい
誰か死ぬまでのダンスフロアは!
大人の方がコドモだな
ちょっぴりの気遣いに乾杯さ

 

1サビとは打って変わって真逆のアプローチである。こういった手法はよくあるが、その分内容を軽視しがちな傾向にある。歌詞にあまり重きを置かないアーティストは特に。だが元貴さんは違うのだ。

おそらくここでいう「ダンスフロア」は人生(=パーティ)のことだろう。ここは非常に解釈が分散する所だと思うが、僕は『死に怯えて、生き急いでいる自分本位な大人はみっともないし子供よりも実は精神的に"コドモ"。だからちょっとした気遣いでも大したもんだ。』ということではないかなと思った。あくまで僕の考えです。なんとなくここでは「WanteD!WanteD!」の歌詞に通じる毒が感じられる。

 

人の言う“時間”は
おんなじところにあるらしい
でもたまに羨ましい
君のことを妬んでしまう

 

『時間というのは人間全員に等しく与えられているものである。全員が同じ時を過ごしているのである。しかしながら、平等に与えられているものを持っていながら、環境や境遇や才能で君と僕の差を感じるたびに妬ましく思ってしまう。』

人間誰しも妬み嫉みを抱いてきたと思う。それは元貴さんも当然同じだろう。前述のように普遍的に言えることではあるが、ここは元貴さんが自分自身に語りかけている部分が大きいように思える。なぜか。

元貴さんは高校生の時にミセスの活動を本格化し、結成からたったの2年、在学中にメジャーデビューを果たした。とんでもないことである。これは音楽活動をしている他の若手アーティストからしたら羨ましい、妬ましいことかもしれない。だが、元貴さんからすれば自分は普通に過ごしている人なら送るであろう高校生活を、青春を、人並みに送れなかったのだ。そこが羨ましくなることがある。そういう類のことを度々インタビューなんかでも話しているし、おそらくここではその気持ちが強く出たのではないだろうか。他にも沢山あるかもしれないが、僕にはこれが一番強く想起された。

 

知り合って
笑いあって
傷ついて
歩み寄って
“人”を知る人になれ

いつか生まれる“君”が呆れ果てないように
愛を注げる人になろう。

 

そして最後。もう胸が一杯である。僕はこの歌詞を初めて聴いた時、ミセスの過去の曲たちを思い出さずにはいられなかった。

「人を知る人になれ」

『人と出会い、仲良くなってもその人にひどく傷つけられたりもする。人を信用できなくなったりもする。それでも、人を信じ歩み寄り手を取り合い生きてほしい。人間というものの愚かさ醜さを知り、その部分でさえも愛せるようになってほしい。そうすれば未来の君はきっと呆れることなんかなくなっている。』

という、誰よりも人という汚く醜い生きものを愛する元貴さんの「君」に対する祈りにも近い想いであるように思える。この想いは1st AL『TWELVE』リード曲の「パブリック」に最も強く表現されていると思っている。聴いたことない人は聴いてみてね。

それと、歌い出しサビでは「いつか生まれる"僕"」だったのだが、最後は"君"になっている。これは、前述したようにおそらくどちらも聴き手のことなのだが、最後にはこうして直接聴き手にあなたのことだよと自然と向き合わせるようにしているのではないのだろうか。意図せずだとしても凄いなぁ。

 

といった具合に「PARTY」の歌詞について触れてきた。はっきりと言えることは、この曲は元貴さんのバックボーンを他のアルバム曲よりもより一層強く纏っているということだろう。「ENSEMBLE TOUR」のMCで、「このアルバムは『TWELVE』を制作した時と同じように自分という人間と向き合いながらつくったから、本当に寂しかったし、傷ついたし、それだけ命を削ってつくった」という旨のことを元貴さんは言っていた。辛かっただろうなぁ。僕らリスナーもそのことを忘れてはいけないし、その元貴さんという人間の存在のあり方こそMrs. GREEN APPLEの本質だと思う。弾けんばかりのポップネスと実は表裏一体のこの事実を感じながら聴かねばならないなと思う。大切にしよう。

 

音楽的視点から紐解くPARTY

 

歌詞パート長すぎわろた。疲れましたね。ノンストップで読んでる人凄すぎ。しゅき。でも多分今からもまあまあ長いです。先に謝っとくごめん。てことでやっとこさ音楽的にPARTYを掘り下げることができます。さあ冒頭でも言ったようにこの曲、とんでもないことになっているのだ。マジで組曲なのである。かなり細かく分析するのでこのパートは更に小見出しをつけて分けます。レッツゴー。

 

曲構成が面白い

 

先程から何度も言っているが、組曲なのである。なので、セクションを分解し、それぞれが音楽的ジャンルのどれに分類されるのかをみていこうと思う。

 

  • 「もう一度〜」→A(ポップ)
  • 「言葉じゃないと〜」→B(ピアノ+ストリングス)
  • 「あぁ素晴らしい〜」→C(アイリッシュ)
  • 「青い春は〜」→B(ピアノ+ストリングス)
  • 「あぁ穢らわしい〜」→C(シンフォニック)
  • 「ずっと柔らかい〜」→D(ストリングス)
  • 「RELAXして〜」→E(ロック+ストリングス)
  • 「あぁ素晴らしい〜」→C(ポップ+アイリッシュ)
  • 「知り合って〜」→A(ポップ)

 

分解するとこんな感じ。コード進行・メロディが変わっているところは全て分けた。なおセクション間の間奏は割愛した。Bにはギターフレーズも鳴っているが、メインではないので書かないことにした。

ざっくりと全体の流れを説明すると、Aは導入、その後は通常の曲と同じ流れに入り、BがAメロ(ややこしいわ)、Cがサビでその後2番も同様、D,EがCメロ(だからややこしいだろ)、その後ラスサビ、最後に導入に戻る、といった構成になっている。

Aを「導入」という変な表現をしたが、これはサビと言ってもよいだろう。つまりこの曲にはサビが2つあるのだ。その時点で最近の楽曲としては非常に珍しい(はず)。

余談だが、ミセスの8thシングル「僕のこと」はもっと複雑な構成をしている。この話はまたの機会に。

また、ほぼ全編を通してストリングスが印象的に用いられている。なんという美しいメロディラインであろうか。ここも集中して聴いてみてほしい。実は歌い出しサビ後のフレーズなんかはスリリングな音階をなぞっている。

ちなみに「鯨の唄」も全編ストリングスのそれはそれは美しい曲である。おそらく元貴さんはストリングスが大好物なのだろう。元貴さんとは是非クラシックの話をしたい(わかる)。

 

様々なジャンルの共存

 

この曲の最大の特徴はなんといってもここだろう。このジャンルの豊富さである。1曲に詰め込む情報量ではないのだ。前述したようにポップ、ストリングスを巧みに用いたシンフォ、アイリッシュ音楽、これまたストリングスを絡めた重めのロックとこちらはお腹いっぱいである(褒めている)。

おそらくポップやロックに分類される通常のアーティストは曲を制作する際、ジャンルをまず決めるはずである。その場合大抵というかほぼジャンルは1つ(あるいは2つを融合したもの)だ。そしてそのジャンルの中で、歌詞やメロディ、特徴的な声などでアイデンティティを堅持しようとするアーティストはごまんといるだろう。だが元貴さんは違う(前回に続き2回目)。1曲に全てをぶち込む勢いなのである。しかも1つも存在の浮いているセクションは無く、そのどれもが「共存」し、曲として極めて自然に仕上がっているのだ。

もちろんこういったことをやってのけているアーティストは日本や世界に他にもいる。シーン最前線にいるアーティストにはこういった芸当はおそらく可能だろう。だがこれはそこらの20ちょっとのミュージシャンにできた芸当ではない。小6からひたすらに音楽のみに向き合い続けてきた元貴さんだからこそ為せる、音楽への愛の結晶なのである。

僕にはこの曲が、ミセスが今まで培ってきた、表現してきた音楽の集大成のような気がしてならなくて、ライブで聴いたときに涙が止まらなかった。

 

最初と最後、たった1音の変化

 

この曲の中で1番感動した仕掛けを紹介しようと思う。このパートでは、たった1音の変化

注目していく。

冒頭のサビ、「馬"鹿"げてないバカになれ」(太字部分)の音は「#レ」である。

一方で最後のサビ、「あ""を捧げる人になろう」の音は「ミ」である。

 

そう。半音上がっているのだ。この違いになんとなく気づいた人もいたかもしれない。これは間違いなくわざとだ。当たり前だが、CD音源は何度も試行錯誤を重ねてレコーディングしているので良いテイクが取れるまで当然何度も録り直す。そのため、この部分を同じ音にしようとすればできるが、そうはしていない。間違いなくわざとだ(2度目)。

おそらくこれは歌詞と強く結びついているのだと思う。どちらの歌詞も元貴さんらしい言葉だが、これまで一貫して歌ってきた「人間愛」を聴いている人たちにも持ってほしいという最も強い願いが表れているのが最後の歌詞なのだ。なので、最後の音の方が正しい、ないしは元の音であると言える。最初の歌詞から最後の歌詞に経過してゆく様子を音楽でも表現したかったのではなかろうか。

ちなみに音楽的にも最後の音はこの曲のキーである「Gメジャー」のメジャースケール(長調の場合のドレミファソラシドの音階)に含まれる音なので、こちらが正しいと言えるだろう。Gは日本の音階で言うところの「ソ」。

 

まとめ

 

いかがだっただろうか。今回も案の定半端ない分量になってしまったのを改めて謝罪させてほしい。ちんちん(強い誠意)。とはいえ、それなりに新たな気づきがあったりしたのではないだろうか。特に最後のことなんかはこれからいろんな音楽を聴く上で重要な気づきかもしれない。

まあとにかく、これを読んだ人の中でミセスの曲の見方が更にいい方向に変わる人が1人でもいればそれだけで嬉しいです。

それではまた次の記事で。風邪引くなよ(某フロントマンの受け売り)。