シンギュラリティこわい

世に対する疑問、音楽の解釈、ふと思ったこと、積年の思考、すべて表現の自由の担保

Attitude

どうも。今回こそあまり間を空けずに記事を更新できた!ことを嬉しく思う。今日はしょうもない前置きは無しにして、10/1(火)0時からMrs. GREEN APPLEの4th AL『Attitude』の配信が開始された。そして、先程全ての曲を聴き終えた。かなり時間がかかったが、このアルバムについて、そして今まで自分が知り得る限りのミセスの歩みとこのアルバムの繋がりとかを書ければなということで、出来る限り書いていく。なので今までの私のミセスについての記事のバックナンバーにも目を通してもらえるとすんなり読めるのではなかろうか。ぜひ読んでみてね。

 

Attitude

Attitude

 

このアルバム、ミセスのアルバムとしては過去最多の収録曲数で、17曲も入っている(1曲目はインスト)。しかも前作『ENSEMBLE』から約1年半のスパンで。普通のアーティストでは考えられないのに、大森元貴という人間は編曲・マスタリングまで終えてしまっている。セルフプロデュースのアーティストでこのペース、もう一度言うが本当に考えられない。そういう点でもMrs. GREEN APPLEというアーティストは、大森元貴という人間は他を凌駕している。おそらく本人もそれを理解している。だからこそ無理をして曲をこのペースで産み落とし続けるのだと思う。こういう話は後でたくさん書きたいのでこの辺で。そしてもう一つ、今回のアルバムは事前プロデュースが今までに比べて著しく少ない。3ヶ月連続で楽曲を解禁していったこと以外、アルバムの詳細はメディア展開されていない。初めてアルバムを手にしたその日のファーストインプレッションで決めてくれと言わんばかりに。この辺の考え方は、先日まで行われていたツアー『The ROOM TOUR』に通ずるものがある。私自身も雑誌やらインタビューやら、このアルバムの宣伝は全部シャットアウトして今を迎えた。正直タイトルだけでここまでアルバムを聴くことが「楽しみ」ではない他の感情になったのは初めてだった。

てなわけで早速1曲ずつ掘り下げていきたい。というか自分の曲に対する解釈、気持ちを書いていきたい。初めに言っておくけど1ファンの1感想であることを常に忘れないでもらえれば幸いであります。真意は曲を書いた張本人の大森元貴にしか分からないのだから。まあそれでもこんな捉え方もあるよ、と少しでも自分と違う考えを広げる一助になればと思います。それではいきましょ。

 

 

1.InsPirATioN

これは前述した通り楽器のみのインスト楽曲。勿論のことながらこの曲にも大きな意味があると思っていて、これは私の解釈なので別に真に受けてもらわなくて構わないのだけど、次の曲『Attitude』を書き終えるまでの元貴さんの心理を映し出した情景描写ではないのか、というのが私の想像。

チーンという音が鳴った後に勢いよくストリングスセクションが入ってくるところでまさに"インスピレーション"が爆発する。次々に湧き出る音楽的なアイデア。カチカチとひたすらに打ち続ける歌詞。そして最後にひと息。完成。そのままAttitudeへ。

みたいな風に私は感じた。皆さんはどうだろうか。それぞれの解釈があると思う。このSEだけで膨大に想像が膨らむ。あと、例によって大文字小文字が混合した曲なので小文字部分の意味を調べてみたけど特に出てこなかった。今回はただの遊び心かな?気になるねぇ。次に行こう。

 

2.Attitude

多分1番長いです。

最初に。まだこの曲しか聴いていなかったけど、この曲がこのアルバムの全てだと私は感じた。そしてこの曲からその日は他の曲へ進めなかった。私の周りにもそういう人は何人かいた。

語弊を恐れずに表現するなら「説明書」じゃなかろうか。と同時に、この曲にもあるように「遺言」なんだろう。それもこれまでのどの曲よりも強い。曲を届けてくれる張本人にここまで言わせてしまった。「届かなかった」から。何度も繰り返すけどこれはあくまで私の考え。これほどまでに一つ一つの言葉が切実な元貴さんの本音であったことはあるだろうか。勿論伝えたいことは「世の中本当にうんざりすることばっかりだけど、それでも僕はそういうところも含めてこの世界の愛おしいところだと思うし愛していきたい」というような形でこれまでいろんな形を取ってきたけど一貫してきた。だけれども、この曲は今まで彼が世の中に放ってきた曲達の言葉であると同時にそのどれでもないものも孕んでいると思う。大森元貴という人間の根幹にある世界への考え、人間という生き物への考えや愛、それを歌い続ける理由。一つ一つ、自分なりに考えていきたいと思う。

一度聴いて。「ここ最近、Mrs. GREEN APPLEは世間の沢山の人に知られてきました。本当に嬉しいことだと思います。でも、今ここで、私達の本質、私が音楽をつくり続ける理由を聴いてくれる人には正しく、できれば可能な限り誤解なく知っておいてほしいのです。ただ耳馴染みのいいポップソングとして消費されたくないのです。華やかなエンターテインメントの裏にある本質が届いてほしいのです。でも、人間故にか、なかなかそれは叶いませんでした。なので、これから私と、私の音楽の全てを、そのままお話します。」そう元貴さんが言っているように思えた。この曲は、何故あの人が音楽に自らの全てを託して私達に届けようとしているのか、比喩表現でなく命を削って私達に訴えて、投げかけてくれているのか、それを言葉一つとして遠回しにすることなく伝えている。と私は思う。こんなことが今まであっただろうか。以前の楽曲、1st AL『TWELVE』に収録されている「SimPle」でこんな風に投げかけている箇所がある。嘆きに近いように思う。

無情を唄っても 誰も気付けなくて

君や娯楽を唄っても

まだ届いてなかった

「人なんかいつか死ぬし、何かが始まればいつか必ず、必ず終わりが来る。この世は無情で無常で救いようがない。だけどそれでもこんな世界でずっと生きていこうと思う。正直この世界は壊れてる。どんどん感覚が狂っていってる。そこに気づいてほしい。そんな世界でこの曲を聴いた君だけでも、その狂った感覚から戻ってきてほしい。まだまだ人は本当の意味で人に優しくできる。そんな僕の気持ちを世の中に届けるには、まず誰もが好む、耳馴染みの良い、キャッチーな曲でパッケージする必要がある。じゃないとより多くの人に聴いてもらえないから。

 

届かなかった。勿論1ミリも届いてないと思ってるわけじゃない。だけど、僕の気持ちが報われるほど、これでいいと思えるほど深く届きはしなかった。」

まさに元貴さんがファンクラブブログで書いていた“この作品が世に届かなかったら、よっぽど世の中が終わってる か、僕の才能が無い"という言葉にそういう思いが表れてると思った。

具体的にこの曲に綴られている言葉について考えていきたい。

 

まず、この人は自分の気持ちを乗せた音楽を生み出して世に届けることが「我儘」だと思っているのだ。言ってしまえばある種の自虐。でも私はこの人の我儘に数え切れないほど救われてきた。これからもずっと我儘を歌っていてほしいし、終わる時まで聴き続けたいと思う。本当は終わって欲しくなんてないけどね。でもそれこそこちら側の「我儘」だ。

どうにか届くように、と歌詞を綴る。だけどやっぱり、自分の想い100%は届かない。無理だなぁ、諦めた。それでも、この世は自分も含めて弱い人ばっかりで救いを求めてる人が沢山いる、せめてそんなことだけでも時代の、世の中のどこかに響けばいいな。やっぱり届かないって思ってたんだなぁ。口にはしてこなかったけど、前述したSimPleなんかにもそういった気持ちは表れていた。3年半以上前から。ただ、これほどハッキリと言ってしまったことは一度もなかったと思う。どれだけの葛藤に苛まれて生きてきたのだろうか。私なんかには想像すらできない。言わせてしまったのだ。形容し難い胸の詰まりを抱いた人が多いんじゃなかろうか。

僕が聴き手に届けたい人間への愛を今回もまたひとつと探しながら、その力を「阿呆みたいに」信じる。それが僕の音楽に対する姿勢なのだ。ここも自虐。誰が阿呆みたいになんか思うものか。でも届いてないと感じてる元貴さんからしたら確かに「阿呆みたい」なのかもしれない。そのキャッチーなメロディに隠れるはそう、偶像。この偶像は、元貴さんにとっての偶像なんじゃないかな。自分の信じてやまない考え方。でもきっとそれは、少なくとも私達にとっては絶対に間違っていない。

こんなノイズまみれの世の中でもどうにか眠れる様にと、目を瞑る。目を瞑った光景に浮かぶのは、白馬に跨る僕。似合わぬ僕。でも満悦。人の前に立って作品を届けるには、美しい白馬に跨るが如く、心を武装しなくてはやっていられない。こんな歌詞を綴る僕に似合わないのはわかっているけど、パッケージをポピュラーにしないと生のエンターテインメントとしては成立しない。しかもやってる自分も楽しい方がいいに決まっている。だからこれでいいのだ。そう思う自分もいるということなのだろうか。元貴さんは昔の曲を披露する時は寿命が縮んでしまうから心を武装し切ってからじゃないと披露できない、といった旨のことを以前言っていた。そんな気持ちがあふれた言葉に感じた。

この世は腐ってなんかは居ない。そんなことだけでも、今度は自分が報われたような気持ちになる。元貴さんは自分が安心する言葉を歌詞に書くようにしているとよく言っているけど、ここもそういう気持ちが強い部分だな、ととても思う。みんなに向けて僕は歌ってるんだけれど、誰よりも自分に向けて歌ってるんだよ、そう思わずに居られない。全然それでいいし、私達はそういう曲に救われている。

あなたはアーティスト中毒。

これはこの曲の中で唯一の皮肉だと思う。私達は好きなアーティストに対して盲目になってしまうことがある。「他のアーティストだったら微妙だったけど、そのアーティストが出してるからその曲、作品は好き」。音楽を平等に評価できなくなってしまったり。1人の人間として音楽を愛している元貴さんは多分、それを望んでない。当たり前だけどフラットに聴いてほしい。表面だけをさらってほしくない。深く、聴いて欲しい。そこは履き違えないでほしい。そういう想いを感じた。そして、私が産み落とした子達、今まで世に放ってきた全部の曲達が私の心臓。自分が信じた音楽の力と言霊の力、それを文字通り魂を入れて送り出した大事な大事な我が子。私達は受け取れているだろうか。少なくとも自ら手を伸ばしてこのアルバムを手にした人には突き刺さっているよ。

いずれ夢から覚めて魔法は解け、残酷な現実と向き合わなければいけない。こんな世の中でも、人を愛していきたい、永遠などない人の世で、せめて愛し愛されて死にたい。そうじゃなきゃこんな世の中生きていけない。この世は辛いんだから。私にはそう聞こえた。

エゴイズム。自分のことだけ考えて生きていく。このご時世、そんな奴も沢山いる。増えてきた。パシフィズム。平和主義。リベラリズム自由主義。平和に生きたいし、この世界は自由でもとは平等なはずなんだ。でも、ペシミズム。厭世主義。この世は正直に言ってしまえば悪、憎悪、悲惨に満ちた最悪の世界。これは揺るがないし、これからもきっとそうだろう。

ヒューマニズム。(多分ここでは人本主義ではなくて)人道主義。それでも人間は人間らしい方がいい。僕は醜いところも含めて人間という生き物が捨て切れないし、愛おしい。やはり人間のことを愛したい。

よそ行きの顔して隠れてるだけで、この世は弱い人ばっか居ます。わかって欲しい。やるせないけど、この世は腐ってなんかは居ない。そう思いたい。そう思わないと僕達生きていけないじゃん。少なくとも僕はずっとそう歌いたい。我儘が終わるまで。

そして、そうやって書き綴られた歌は私のそう、遺言。元貴さんはよく「全部が僕の遺作です。」と言って私達に曲を"手向けて"くれていた。それを歌詞にすることはなかったけど。でもとうとう、こうして曲の最後にハッキリと言葉にしたのだ。これは別に比喩表現ではない。本当に元貴さんにとっては「遺言」なのだと思う。真の意味でこの言葉を使っていると思う。これまでもこの曲も、自分が聴き手に、世に届けたいことは投げ続けてきたつもりだからもういつ死んでも悔いはない。もっと言えば人なんていつ死ぬかわからない。そんな中で後悔、出し惜しみなどしている暇はない。1秒後に死んでもいいくらいには僕は音楽と向き合っている。勿論できることならまだ死にたくはないと思うけど。誰だってそうだから。でもそういう意味だと私は思っている。こんな風に音楽を書いてる音楽家他に知ってる?私は知らない。

 

作り手として、これだけハッキリと思いの丈を真っ直ぐに言葉にしたのには前述したような理由があるんじゃないかと私は思っている。これは私の勘だし妄想だけど、恐らくこんな曲書くの最後で、もう二度と生まれないと思うし、まあでもここまで言ってしまっているのだから当たり前かもしれない、もっと言えばこの先元貴さんは曲を書くということが今までと同じ感覚でできるのかなという思いもある。だって手のひらを見せてしまったようなものだと思うのです。でもだからこそこの、世間にMrs. GREEN APPLEという名前が知れ渡ろうとしているタイミングでこの曲を書いたのだと思う。言うまでもないと思うけどね。そこまでするのか。あぁ本当にMrs. GREEN APPLEがここで一区切りつくんだなと実感している。とにかく、信じ続けたい。

 

と、いつも通り楽曲分析のつもりが、今回は結局歌詞についてだけになってしまった。言葉の持つ力が大きすぎた。でもこのAttitudeという曲、音楽的にもとても言及したい部分が多いのでそれは次回で。

もう一度同じことを言うことになってしまうけど、この曲は、「僕はこういう人間です」というのを今までで1番さらけだした曲だと思う。でもそれは本当に辛い作業なんだって元貴さんはTWELVEの時期かな?に言っていた。し、ENSEMBLE TOURのMCでも口にしていたような気がする。Mrs. GREEN APPLEの曲には他にも本質的にはそういう曲が沢山ある。ここ最近は表立って見えてはいなかったけれど。

それと、元貴さんは「100は無理」と言ってこれだけでも届けばいい、と歌ってるんだけれど、私はこういう曲には毎回100を詰め込めてくれていたと思っている。恐らく祈りにも近い気持ちで。もしかしたら届くんじゃないのかな?と思い続けて曲を出し続けてくれてたんじゃないのかな。その気持ちも全部私は嬉しいし、でも届いていると思わせることができなかった私達が悪い部分もあると思う。もっと深いところで音楽を享受する必要がある。Mrs. GREEN APPLEの本質が、自分も含めてせめてライブを観に来た人には伝わってほしいなぁ。と勝手ながら思う。

 

大袈裟に聞こえたなら笑ってもらって一向に構わない。私は、大森元貴という人間は、この世界の"本当の意味での本質"に気付いている、この世の中の数少ない人間のうちの1人だと思う。人の何倍も人が見えている。世の中の動き、形を持たない思想、集団が醸し出す雰囲気。思考を放棄した人間が増えた。実感がないから、人を想う心が麻痺する人間が増えた。だから"バカ"な人間が増えた。そしたらそれに乗っかるバカなふりをして面白がる人間まで現れた。そいつらは本当にバカになっていった。可哀想に。それでも、そんな世界に対して誰よりも大きな愛を抱いている、そう曲達から感じる。勿論いろんな言葉の使い方はあるけどね。そして彼が偶然にも音楽の力を、可能性を介して私達に「音楽」という形で、人生を賭けて自分の想いを届けてくれようとしていると思う。だから音楽をやってる動機も、ともすると他のミュージシャンと大きく異なるんじゃないかなとも思う。恐らく元貴さんは、深く深く人間と向き合おうとするが故に、人間の持つ矛盾と誰よりも闘っている。元貴さんにしてみれば、そうやって本質と深く向き合うのは下手すりゃそれは結構辛く生きていくことなのだ。見たくもない、聞きたくもない、知りたくもない事実が沢山あるこの世と向き合うことはあの人にとって必要だけどとんでもなく辛いはずだ。でも元貴さんはそれをやめない。私は、こんなにも音楽に敬意を表して、音楽の持つ可能性を心の底から信じ切って音楽に全てを捧げる人を、音楽人をこの人以外に知らない。こんな奇跡みたいなことが今、自分が生きている時代に起こっている。

どうか、私にとって誰よりも偉大な音楽家であり、そして人間である大森元貴という人が報われますように。それとツアーやらメディア露出やらあると思うけれども、どこかでゆっくり休んでください。しばらく無理して曲作らなくていいです。このアルバムの存在意義をじっくり考えます。

 

疲れた。果たして言いたいことを全部書けたのか不安ではある。が、とりあえず今回はここまでにします。長くなりすぎたのでね。アルバムの他の曲の続きは次回以降でやっていきます。とにかく、この曲が世の人、世の中の誰か1人でもに、誤解されることなく、深く届きますように。次の記事すぐ出します!必ず!そんじゃ。風邪引くなよ(某フロントマンの受け売り)。